昭和57(1982)年に発生したフッ化水素酸(HF/フッ酸)塗布死亡事故について

投稿者: | 2025年1月17日
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 フッ化物の安全性について議論にあがる際,必ずあげられるのが1982年に発生したフッ化水素酸を誤塗布した医療事故です.事故はどのようなものだったのか,当時の新聞や資料を基に事故や裁判の経過を詳細にたどり,歯科で頻用されるフッ化物との違いについて述べてみたいと思います.

 ※本事件は,現在,Web等で実名での報道も散見されますが,本稿ではご遺族・関係者に配慮し匿名(イニシャル)で記述しています.

 

1.事故の概要

 八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故は,1982年(昭和57年)4月20日に東京都八王子市で発生した医療事故で,歯科治療用のフッ化ナトリウム(NaF)と間違えて,歯科技工用かつ毒物のフッ化水素酸(HF)を歯に塗布された女児が死亡した事故.

 

2.事故の経過 1)

 1982年3月19日,東京都八王子市めじろ台の「T歯科医院」のT院長(当時69歳)は,う蝕予防薬であるフッ化ナトリウムの残りが少なくなったため,助手である妻(当時59歳)に対し,発注するように依頼した.薬学知識を持っていない妻は,フッ化ナトリウムのつもりで「フッ素」と略して注文用紙に記入した.注文を受けた市内の歯科ディーラーK歯科商会は,「フッ素」を「フッ化水素酸」と解釈し,その日に同院へ納入した.納入した際,フッ化ナトリウムであれば必要のない,毒物及び劇物譲受書への押印を求められたが,妻はその違いに特に疑問を抱くこともなく印鑑を押して瓶を受け取り,その瓶を診療室の薬棚に入れた.薬瓶のラベルには「フッ化水素酸」「46%溶液500グラム」等の表示があった.T院長も,従来使用していたものとは瓶の大きさやラベルが違うことに気付いていたが,前年の暮に取引を始めた新しい業者から納入されたものであったため,違うメーカーの「フッ化ナトリウム」が届けられたのだと誤解した.T院長は使用しやすいよう従来使用していたフッ化ナトリウム用の小瓶に移し替えた.

 1982年3月20日,午後3時50分頃,う蝕治療を目的に同医院を訪れていたJちゃん(当時3歳)に対し,T院長は脱脂綿にしみこませた薬液を歯面に塗布した.Jちゃんは3月2日から奥歯三本のう蝕治療を始め,受診は四回目で,これまでにフッ化ナトリウムの塗布を受けたことはなかった.塗布直後,Jちゃんが口から白煙のようなものと,えんじ色の唾液を出し,「からい」と訴えて仰け反った.T院長は母,Hさん(当時33歳) と同院の歯科助手に手足を抑えるように言い,再度たっぷりと塗り込んだ.その途端,女児は「ぎゃあ」と悲鳴を上げ,体が宙に舞うほど暴れだし,助手と母親の腕を跳ね除け診察台から転がり落ちた.「あつい,いたい」と訴えて泣き叫び床を転げ回る女児を母親が抱き上げると,口の周りが出血を伴いながら真っ赤にただれていた.
院長は,初めての反応に対して特異体質によるものだと判断し,薬剤を注射した上で119番通報した.しかしまもなく女児は意識を失い,救急車で近所の病院に搬送されたものの,症状が重篤であるため東京医科大学八王子医療センターに転送されたが,同日18時5分頃に死亡が確認された.

 T院長の妻(59)は,Jちゃんが病院に救急搬送されたあと,異常な暴れ方に違和感を持ち,女児の歯に塗布した薬品を自分の歯につけたところ,強い刺激を感じ歯茎が荒れたため,うがいをして吐き出し,薬を間違えたことに気付いた.妻は証拠隠滅のために院長に無断で容器などを洗い自宅の焼却炉で焼却処分した.しかし,同日に家宅捜索した八王子警察署によって診療室内の薬品や焼却炉内の灰が押収されている.

 当初,T院長は「う蝕を予防するフッ化ナトリウム少量を容器からトレイに移し,ガーゼに塗る通常の方法で行った.こんなことになって驚いている」と説明,医療ミスでないことを強調していた.事故の翌日である21日にはJちゃんの自宅で通夜が行われ,T院長は八王子署での事情聴取を受けた足で参加した.焼香し,同日午後9時頃,女児の通夜の席で遺族から激しく責任を追及されたT院長は,倒れた遺族に深々と頭を下げたわずか5分後,肩先から崩れるようにして倒れ,高血圧性脳症を起こし,そのまま入院した.21日,東京慈恵会医科大学法医学教室で実施された司法解剖により,口の周りの皮膚がただれているなどの急性毒物中毒と考えられる特徴が確認された.23日午後,警視庁科学捜査研究所はポリ容器に残っていた微量の液体から,毒物のフッ化水素酸の反応を検出したことを発表した.

 警視庁捜査一課と八王子署による26日までの事情聴取で,司法解剖とフッ化水素酸が検出された結果をうけ,T院長から「私が薬を間違えた.今後,出来る限りのことをしてつぐないたい」との供述を得た.9月28日,東京地方検察庁八王子支部は院長を業務上過失致死で起訴した.1983年2月8日,T院長は治療ミスを全面的に認め,3,850万円の慰謝料を支払うことで被害者遺族との示談が成立した.また,同年2月24日,T院長は東京地方裁判所八王子支部(現立川支部)で業務上過失致死罪により,禁錮1年6ヶ月,執行猶予4年の有罪判決を受け,これを受け入れたため,この第一審判決が確定した.

 

3.フッ化水素酸と予防歯科で用いられるフッ化物2)3)

 フッ化水素酸(hydrofluoric acid:HF)はガラスの艶消し,半導体のエッチング,金属の酸洗いなど,工業用分野で広く使われている.しかし,フッ化物イオンがカルシウムやマグネシウムと結合して全身症状を起こすなど,人体にとっては有害な物質である.

 予防歯科分野で一般的に使用されているNaFは水溶液中でNa+とFに解離する.H+が高い環境下(胃酸など)においてはH+とFが結合し,低濃度のHFが生成される.細胞の中に吸収されたHFは,細胞内部が弱アルカリ性なため,直ちにH+ と F に解離する.胃で吸収されなかったフッ素の一部は腸管で吸収され,残りは糞便として排出される.フッ化物は緑茶や野菜,魚や肉など多くの食品に含まれており,これらのフッ化物からも微量のHFが体内で作られている.これらはいわゆるフッ化物製品の毒性を表すものだが,普段使用している用法・用量であれば,なんら問題にならない.

 

4.現在の歯科技工では使用されなくなっているフッ化水素酸4)5)

 以前は,セラミックの歯科技工,特に表面処理で使用されていたが,本事故の発生や取扱いが難しいことからほとんど使用されなくなっている.現在は一部製品が歯科技工用に販売されているが,ほとんどがアルミナ処理等に置き換わっている.

 

5.フッ化水素酸に暴露した際の対応6)7)8)9)

 フッ化水素酸を使用する際は,十分に換気が可能な施設で使用する.例えば,実験等で使用する場合には,ドラフトの中で実験操作を実施する.マスク,ゴーグル,グローブ,その他防護衣を着用し,万が一を想定し可能であればグルコン酸カルシウムゲル(日本で商品化された製剤はないため,グルコン酸カルシウムとグリセロールを調合)を用意しておく.
フッ化水素酸(HF)に暴露してしまった場合は,患部を十分に水洗し,初期治療用にグルコン酸カルシウムゲルが常備されている場合には塗布する.フッ化水素酸の化学熱傷の場合,疼痛は,濃度や量にもよるが暴露直後ではなく,1時間以上経過して起こる.また,暴露量がわからない場合や少量であったとしても,フッ化水素酸は組織の深くに浸透し,低カルシウム血症,低マグネシウム血症,高カリウム血症等による全身作用を引き起こすことが考えられるため,速やかに対応できる医療機関に救急搬送する.フッ化水素酸(HF)ガス・ミストを吸入暴露した場合も高範囲な肺障害を生じる恐れがあることから,速やかに対応できる医療機関に救急搬送する.

 

6.まとめ

・本事故は,医療安全におけるスイスチーズモデルの穴を複数すり抜けてしまった不幸な事故.
・フッ化水素酸(HF)と,歯科で頻用されるフッ化ナトリウム(NaF)などは違う物質であることを理解する.
・理論的に体内で微量・低濃度のHFが発生しても体内で為害性を持つほどにはならない.
・歯科技工分野でもフッ化水素酸(HF)は使用されなくなってきている.
・科学を理解せず,本事件によってフッ素は危険などと不安を煽る論調や不安商法に注意が必要.

 

7.参考文献

1)新聞報道 河北新報 1982(昭和57)年4月22日号,読売新聞 1982(昭和57)年4月24日号,読売新聞 1982(昭和57)年4月27日号
2)メディア報道「フッ化ナトリウムは体内でフッ化水素に」記事の誤解を与える内容についての日本口腔衛生学会の見解 日本口腔衛生学会2019.08
3)厚生労働省 職場のあんぜんサイト 安全データシート(JIS Z7253:2019準拠) フッ化水素
4)モリムラ「ビスコポーセレンエッチャント(9.5%フッ化水素酸)」https://www.morimura-jpn.co.jp/product/bisco-porcelain-etchant/
5)松風「ユニクリーン」https://www.shofu.co.jp/product1/contents/hp0794/index.php?No=545&CNo=794
6)MSDマニュアルプロフェッショナル版/22. 外傷と中毒/集団殺傷兵器/焼夷剤およびフッ化水素(HF)
https://www.msdmanuals.com/
7)神戸大学大学院工学研究科・工学部 第2章 危険物等の取扱い基準 8.フッ化水素酸(フッ酸)
http://www.eng.kobe-u.ac.jp/safety/pdf/1-2-8.pdf
8)山元 修, 安田 浩, 伊豆 邦夫ら 当教室で経験したフッ化水素酸による化学熱傷の9例:産業医学的側面よりの検討 Journal of UOEH 2000 年 22 巻 2 号 p. 167-175
9)土手友太郎,河野公一 フッ化水素冷却液化タンク水洗作業開始直後の急性死亡事故例 日職災医誌 52:189-192, 2004

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PHOTO: Stockholm